宣教の実りである典礼

宣教りである典礼

梅崎隆一


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ちらの神学生、司祭の話ですと、インドでキリスト教が始まったのは、聖トマスがAD52年にやってきことに遡るそうです。その根拠などについて尋ねたりしたいのですが、英語がほとんど出来ないので、詳しいことがわかりません。宣教が本格化したのは、ポルトガルとの貿易が始まってからだそうです。ですからインドのには、16世紀以降発展したラテン教会典礼式文でミサをげる教会それ以前のインド独自のシロマラバル典礼式文でミサをげている教会があります

 

 現在(2007年1月)私はインドのケララ州(Kerala滞在していますここではローマ典礼とはうシロマラバル典礼使ってミサがげられています日本ではローマ典礼を使用しているので、その違いがとても興味深く感じられます。

 

 典礼の専門家ではないし、言葉もケララ州で使われている、マリアラム語なので、正確には分からないのですが、観たままを分かる範囲内で書いてみます。まず、祭壇は二つに分かれています。手前に一つ祭壇があり、その奥にも祭壇があります。教会によっては、その祭壇の間にカーテンがしかれ、ミサの途中で開かれます。印象としてはことばの典礼感謝典礼がはっきりかれているということです

ことばの典礼では、司祭会衆かいっている(日本もそうですが、祭壇んでいるとじではないのですが、感謝典礼まると、背けて、背面ミサがまります司祭の背中の向こうからから太陽が昇る感じで、聖体を拝むことができます。典礼文の構造も違い、私が気付いた特に違う点というのは、平和の挨拶が先で、聖体拝領の前に主の祈りが唱えられるところです。聖体拝領は、右手から右手への手渡し、口、左手をお皿にしてもらう方法など、その教会によって様々です。

司祭の祭服は、カサックというスータンのようにボタンのたくさんついた白い服の上に、薄いアルバのような服を着て、その上にストラをして、布のベルトを締め、布で出来た腕輪のようなものをはめ、カズラを上から羽織ります。その服がマントの形をしています。ですから、一見王様のように見えます。

歌は、メロディーとリズムが中心なので、日本の童謡や、民謡、演歌がそのまま聖歌になったような印象を受けます。日曜日典礼、叙階式では女性男性のがマイクにかっています歌がとても多く、司祭が一言言うたびに、歌が入り、その一つ一つの歌がとても長いです。音響はとても大きく、使われている楽器はキーボードだけと言うことが多いのですが、リズムやいろんな音がキーボードに事前に打ち込まれています。またマイクを使ってうソロのきすぎて、周りの会衆っていてもそのはあまりこえません。会衆っている人、歌っていないがいて様々ですだからそれにしてはミサに参加しているとうよりは、与っているというじでしたしかし、傍からていてじはありません

ミサには遅れて入ってくる人が結構多いです。椅子いていいない教会、座、三角座、正座、あぐら、女座(髭やしたですなど様々。だから様々でそれに文句はいません立つ時、座る時、ひざまずく時が全く同じタイミングではなく、場合によっては、皆それぞれでした。

耳学問で恐縮ですが、シロマラバル典礼は、「シリアから来た良いもの」と聞きました。元からインドにあったものではなくて、ある日、南インドにやってきて、それから長い時間をかけてじっくりと熟成されて現在の形になったのではないかと思います。

 

インドで典礼についてじるところがあるのは、日本6年間小教区仕事をしていたときの体験になっています。特2005年われた、大阪教区での典礼についての研修会体験典礼える、今でもされます日本では、ローマ典礼式文でミサを捧げているので、ローマの典礼総則に基づくことになりますが、最近の改訂版により、第二バチカン公会議で謳われたインカルチュレーションされた典礼文改定の許可を申請することが難しい状態になりました。そのことを典礼担当者、日本司教さんたちは懸念していましたしかし、分かち合いの席で司祭、司教の典礼観を聞くと、ミサはこうあるべき、信徒はこうすべき、ということばかりが強調され、バチカンに対して憂いを感じていた聖職者は、信徒に対してはバチカンとあまり代わらない考え方を示していることをとても残念に感じました。その点では、インドに固有の典礼があるというのは羨ましいことですし、こういった典礼は、司祭、司教の指導で誕生したと言うよりは、長い時間をかけてインドの信徒達の心の琴線に触れるような形に仕上げていったと感じるのです。

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 日本では1998年にNICEという、信徒の意見を吸い上げるという画期的な運動があり、日本の信徒が乾いていること、求めていることが浮き彫りになり、また各司教区ではなく、日本の司教団という考え方ができたのですが、残念ながら、この運度は衰退してしまいました。

 最近、日本中学生からメールをいただきました内容は、彼女のおばあさんは、熱心な信者なので、「あなたの友達はミサを受けないのか」といつも聞いてきるそうです。しかし、友達は信者ではないので、「ミサに出るも出ないも自由でしょ。遊びに来るだけでもいいじゃないか」と同じ議論を繰り返すそうです。彼女はさらに続けて書いていたのは、「友達を巻き込んでまで布教しないで欲しい。それから、望んでもいないのに人に無理やり押し付けるのは、その人にとってその神は「神」としては受け入れられないと思います。」、ということでした。

 

 宣教というのは、人に教えを説くことよりも、喜びを共に喜び、悲しみを共に嘆くことが中心です。その方法は、宣教師、司教、司祭が下の信徒に何かを教えるではなく、教わること、共に歩むことによって、達成することが出来るのでしょう。それがインドにてシロマラバル典礼からじたことでしたある日やってきたローマ式文の典礼も長い時間をかけて、日本人の琴線に響くようなメロディーになることを心から願っております。

Claretianos en Nagoya
Liturgy as Fruit of Evangelization